●水原賢治プロフィール●

  生年月日  3月19日(魚座)
   血液型   不明 (たぶんO型)
出身地   愛知県豊田市


●経歴●

男ばかりの3人兄弟の末っ子として生まれる。次男の兄が「学級新聞用のマンガを描くんだ。」と自慢していたのが羨ましくて、字も満足に書けない頃、初めてのマンガを描く。フキダシのセリフは「のののの」とか「いいいい」など、字を覚え始めに書く事のできる僅かな文字ばかりだったが、コマ割もキャラクターもしっかり存在しており、続き物の4話構成の漫画だった。描き上げた後、またもや次男兄に、「俺のマンガは学校のみんなに見てもらうために描いたんだ!おまえのは誰も読んでくれる人はいないじゃないか。」と馬鹿にされ、悔しさのあまり、近所の幼馴染み4人の家のポストの中にそのマンガを配った覚えがある。(恥)
小学校4年の頃、転校先の小学校でマンガ好きの友人数人と出会う。その数人の友人達の中で競うようにノートマンガを描き始める。ノートに鉛筆でコマ割をしてそのまま描くマンガだが、その手軽さゆえに授業中だろうと、どこだろうと描ける。その頃の休み時間はだいたいその仲間とマンガを描いて見せっこをしていた。完成したマンガは学級文庫などに置いたりして、みんなの意見を聞いた覚えも…。(これも恥。)その時の代表作は、「タフィー」(全7巻)「オミィー」「うめた」の三本。
ノートマンガは小学校卒業まで続けられたが、中学校入学の頃には、「マンガ家になりたい。」という夢をココロの中では持っていたものの、恥ずかしくなり、表だって口にできなくなる。
中学2年の頃、次男兄の友人かぢばあたる氏の誘いで同人誌なるものを知り、高校生の同人サークルに混じって創作同人活動をする。その同人サークルの代表下川氏に洗脳され、プロのマンガ家になることを決意。マジ洗脳されてたような感じだったから、他のことが全く目に入らないほどマンガにのめり込む。
中学卒業の頃、同人サークルの高校生たちは卒業、就職などそれぞれの道へ進んで行く。自分も同じような気になって、中学卒業とともに上京。某アニメ―ション専門学校へと通う。
専門学校で、今掛勇氏、むつきつとむ氏と出会い、6人で同人サークル「BANTLINE」を結成。コミティアやMGMなどに参加し、同人活動を始めるが、途中「アニメーション研究会連合」なる、大学のアニメーション研究会が中心になって自主制作アニメーションの上映会を行う団体の存在を知り、それに参加。自主制作アニメーションを制作する。
当時、自主制作アニメーションで一斉を風靡した「DAICONV.W」を制作した団体がアニメーション制作会社「ガイナックス」を設立し劇場アニメーション「オネアミスの翼」を制作した。それにカルチャーショックを受け、「BANTLINE」も「ガイナックス」のようなアニメ会社として設立しようという計画が持ち上がる。株式会社設立アドバイスを仕事とする石川氏の助言により本格化。庵野秀明氏、岡田斗司夫氏などにアポを取り、アドバイスを受ける。
「BANTLINE」からその計画のため、別団体「エイム」を設立し、事務所を借り本格的始動に備えた。全くプロのアニメーションの経験が無く、商業アニメーションの制作は不可能という判断から、専門学校卒業後フリーの動画描きとなる。「メロウリンク」「0080ポケットの中の戦争」「パトレイバー劇場版」などの動画をこなす傍ら、会社設立、自主制作アニメーション、イベント参加などのことをこなすが、事務所の必要経費などの足かせ、「エイム」メンバーの不協和音から、アニメーション制作会社設立の野望は断念することとなる。
失敗のショックから、アニメーションの世界から足を洗い、本来の目的であったマンガ家を目指し再出発することにする。
BANTLINEの残りのメンバーで「EIN」という同人サークルを結成、同人誌活動を再開。アマチュアアニメーションの世界ともそのまま係わり続ける。バイク便、コンビニなどでバイトをしながら、マンガ家のアシスタントをこなす。アマチュアアニメーションではその頃、南野美里氏、奥澤明裕氏らと「39°8」を結成。自主制作アニメーション「フェザー」を制作。91年頃、アシスタント先の人間関係から、いつの間にか商業氏デビュー。現在に至る。

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